大東亜戦争の敗北に際し、折口信夫(しのぶ)は
「神 やぶれたまふ」との詩を詠(よ)んでいる(全集23巻所収)。
祖国の敗戦を「神の敗北」に重ねて嘆いた。こうした捉え方は
他国にもあったようだ。
日露戦争でのロシアの敗戦を巡って、次のようなロシア文学者の
発言がある。
「日本海海戦でロシアはバルチック艦隊とともに海の藻屑(もくず)
と化したみたいな衝撃を受ける。
…ワレリー・ブリューソフは、手紙で『対馬(沖の海戦での敗北)と
ともに古いロシアは海の藻屑となった』とまで書いている。
で、そこで現れた共通の認識というのは、『古いロシアは死んだ』
ということです。
…つまり、キリスト教ロシアは死んだという認識」
「アジアの小国である日本との戦争における敗北というのは、
ロシアにおけるキリスト教原理の敗北とでもいうべき根本的な問い
直しを迫ることになります。キリスト教の神が敗れた、ニーチェ風に
言うと、神の死を経験した」(亀井郁夫氏)と。
だが、日本では果たして「神は敗北した」のか? それを折口信夫の
詩から70年近くを経て、精神史的に再検証したのが長谷川三千子氏
の『神やぶれたまはず』だった(平成25年刊、現在は中公文庫に
収める)。
同書は長谷川氏の最高傑作であるばかりか、戦後史上の稀有な
名著だろう。
その締め括りの一節は以下の通り。
「歴史上の事実として、本土決戦は行はれず、
天皇は処刑されなかった。
しかし、昭和20年8月のある一瞬ーーほんの一瞬ーー日本国民
全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコースト(ハン祭、
旧約聖書『レビ記』でモーセが定めた供犠の1つ=引用者)のたきぎ
の上に横たわつてゐたのである。
…精神史のうへでは、われわれは確かにその瞬間を持つた。
そしてそれは、橋川(文三)氏の言ふとほり『イエスの死にあたる
意味』をもつ瞬間であつた。
折口信夫は『神 やぶれたまふ』と言つた。
しかし、イエスの死によつてキリスト教の神が敗れたわけではない
とすれば、われわれの神も、決して敗れはしなかつた。
大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれは本当の意味で、
われわれの神を得たのである」
― 詳しくは同書を熟読して欲しい。
やや知的な基礎体力を要するかも知れないが。